昭和50年04月30日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
色々に大きな信心という事が言われる。迷い信心ではいかぬと仰るから、迷いの来ない様な信心が、しかも一心と定められると言う事なんですけれども。大きな信心と云うのは、天地金乃神様の御働きを信ずる事の出来れる信心が、最大の大きな信心だと思うですね。天地金乃神と云えば、天地を一目に覧ておるぞとある。天地金乃神様ば天地を一目に覧ておる。そういう神様の働きを、天地金乃親神様が天地を一目に覧てござると言う事を信ずる事の出来れる信心。
これが私は一番大きな信心だと思う。これならね迷いが起こる筈がない。だから此処に一心と定めなければいけません。只病気治しとか災難よけとか、只氏子の願い事を聞いたり聞かじゃったりと言った様な程度の神仏と言った様なものではなくて、どこまでも天地を一目に覧てござるという神様。その神様の働きを私は信ずると言う事にならなければならない。迷いが起こらない起こりようがない。そういう意味で合楽の場合は天地金乃神様が、天地を一目に覧てござるなと。
天地の働きの一分一厘間違いのない働きというものを感ぜずには居られないという程しの信心を、皆さんは見たり聞いたり、又同時に体験しておられるのですから、そう言う所から、天地の親神様の働きを、本当に信じられる信心を頂かにゃいけません。昨日は壱岐の郷之浦教会の、末永先生所の記念祭、五年祭ですかねあっちは。早くから若先生夫婦にお参り頂きたいと言う事でした。ですから飛行機の切符は往復キップを御供えしてございました。昨日朝のご祈念が済んでからすぐ参りました。
聡子を連れて親子三人連れで、それからむつやの信司さんと一緒に参りましたが、相ものう電話が掛かって来た。今日は飛行機が出らないんだと。お湿りで天候が悪うございましたから。それで船ででも行かせて頂こうか、帰らせて頂こうかという電話でしたから、折角思いたって福岡まで行ってるんだから、船ででもおかげ頂いたらよかろうと。船は十三時発でしたからもう行っても、お祭は済んでおるという時間なんです。それでも私が行くがよかろうと申しましたから船で参りました。
それから2時間半位掛りましょうかね、電話が掛って来ました。おかげで無事ついたと。夫婦の者は船に馴れませんから、酔うたけれども聡子だけはキョロッとしとると云って、電話が掛かって来ました。やっぱり昨日は少し船が揺れたんでしょうね。けれども聡子だけは元気でピンピンしとると言うて参りましたが、まあ本当に神経を使わないと言う事は、素晴らしい事だなと思うですね。子供は楽しいばっかりで、酔いどもせんだろうかと思わないからね、神経を使わない。
確かに病気は気からと云うが本当ですよ。所が大人は酔いはせんだろうか、あっちも酔いござるこっちも酔いござるとを見ると、もうちゃんと酔うてしまう訳ですね。きっと二人ともそう言う事だったろうと思うんですけれども。私は昨日電話の掛かってきてから、丁度秋永先生が結婚式の御礼に出てみえまして夫婦で。それで話した事でしたけれども。本当に末永先生がおかげ頂いとる証拠だねと云うて話しました。
昨日朝の御祈念の後に、久富国雄さんが昨日参って来た。昨日あちらの倉庫が建ちますので、建前でした昨日は。だからどうぞお天気のお繰り合わせをお願いし、昨日は御承知の様にお湿りでしたから、そしたらその後に繁雄さんが出て見えてのお届けけでしたけれども。最近の合楽では大事な事をするという時に、お湿りが降らなかったらおかげじゃないと、親先生が言われるのだから降るが良いの、照るが良いかと云うてお願いするなというて、国雄さんに行っておられます。
秋永先生と二人で素晴らしかのうと云うた事でした。あの春の御大祭を仕える。いわば一番大事な日であるという十三日に、外の御用が出来ない位にお湿りがあった。十六日の大祭がお湿りであった。二十日の私共の菊栄会の信心実修会が、もう終日お湿りであった。月次祭がお湿りであった。井上秋永家の結婚がお湿りであった、と云うても愈々降ってはならない所は、花嫁さんが出たり入ったりする時がけは、本当にお湿りがなかったと言うて、喜んでおられましたけれどもやっぱりお湿りであった。
昨日繁雄さんと頃の、そういう建前というのでも、矢張り繁雄さんが言われるのに、お天気になる様に、合楽のおかげに繋っておると言う事がおかげぞと事なのです。私その天候の事は、もう天地の親神様の自由自在である。神様が一目に見てござってから、あちらは今日は大祭だというので、カラッと晴れ上げさせられる位な事は訳のない神様であるけれども、お湿りであったと言う事。お湿りでなからねばならんから、お湿りであったと言う事。その事を神様にお伺い致しますとね、あの桧風呂ですね。
昔四角い桧風呂がありましたが、あの桧風呂の角の方はこんな風になってましょう。木と木がこう組んでありましょう。桧風呂と言う事は神様云うならば極楽と言う所だと思いますよ。合楽の信心が、もう一段高められる信心の節に来てる。天地の上にはっきりそういう様な、本当いうたら、お天気が良いけれどもお湿り、本当ここは降らんが良いけれどもと思うても降る。と言った様に互い違いになっておる。
ここの所が出来ておる所なんだ。御大祭の時にも申しました様に、この雨を利してこの雨に便乗して、大きなおかげを受けなければならない時が来てると言う事を、皆さんにも聞いて頂いた様にです。だからこれが何時まで続くか知れませんけども、まぁ四月一杯続いたから、後はまたずっとお天気ならお天気という、どういう風になるか解りませんけどもです。もう降るとか、照るとか一切をおかげとして頂だけれる実力と云うものがです、合楽にも出来なければならない時だと言う事よりも、もっと大きいでしょうけれども、まあそう頂くべきだとこう思うんです。
そういう意味で昨日の郷之浦の記念祭だというのにお湿りであったと言う様なです。これなんかは、兎に角合楽と繋ってある証拠に、本当におかげを頂いちゃるなと云うて、秋永先生と話しました事でした。どうでしょうか、皆さんの所に何かありますから、どうぞ降りません様に、今の合楽ではそういうお願いではいけないと言う事なのです。それは天地を一目に見てござるという神様をです。天地を一目に見てござると言う事を信じ、天地の親神様の働きを信ずると言う事なのです、金光様の信心は。
だから金光様の信心しよりゃ、決して降らんてんなんてんち言う様な信心から、もう二十五年経って、成程神様ちゃ間違いないな、一分一厘間違いないな。降りよっても例えば御大祭と云うたら、晴れ上がってしまうという程しのおかげを見て来たのですから。今度はそれと反対に、今日も降った又合楽の大事な時に、お湿りが続いておると言う事にです、成程天地の親神様の一分一厘間違いのない働きを信じなければ居られないと、私は思うのですが皆さんどうでしょうか。
この頃合楽の信心が間違うとるとじゃなかじゃろうか。合楽は何かの時には必ず雨が降るがと云った様なものではないと、私は思うのです。今云うもう一段信心の世界もう一段高い次元にある、合楽の信心と云うものが頂け様としておる時、また頂ける時だと言う事を、神様は桧風呂によって教えて下さったんです。夕べ遅う繁雄さん親子が出て見えました。皆さんのそれこそ切実なお祈り添えを頂いて居られました。
久富クニカさんが、昨日お国替えなられました。十時四十一分だったそうです。本当にまぁ苦しみ抜かれた御一生だったと思いますね。その事のお届けに見えました。私は昨日は遅くに風呂に入りました。お風呂の中で矢張り心に掛かる事は、風呂の中でやれやれ極楽と言う様な気持ちの中で、私はいつもご祈念するんです。クニカさんの事を風呂の中で丁度勇さんが風呂に入る一寸前にお届けに来ておりましたから、その事をお届けさせて貰いよりましたら白絹ですね。
羽二重の綺麗な白絹を巻いた奴を、丁度おそばがいつも御大祭の時に盛ってあるように、ピラミッド型に丁度お三宝一台ある位じゃろうという位に、、それが奉書紙が掛かっておって、そして金銀ではなくて銀と白の水引が掛かっておるお知らせを頂いたです。あらっとこう思ったです。これは久富クニカさんの事は、もう三四年前からお国替えのお知らせを、ずっと皆さんが頂いて来られたですね。此処におられる皆さん、殆ど頂いておられます。クニカさんのお国替え。
それを願い願いして今日までおかげ頂いて来ておったんです。それから私それを頂いてからハラッと思いましたし、先程勇さんがお願いに見えた。そのギリギリの状態の中にあると言う事でございましたから、お願いさせて頂きよりましたらお茶道具一式を頂きました。皆さんも御承知のようにお茶のお点前というのは、どの一手を抜いても先には進まれないのですよ。お茶の点前はそれこそ水の流れる様に一つの点前が狂うても、お茶の点前が狂うて来るんです。
それが一つ一つの順序を追うて水の流れる様に行く事がお茶であります。そしてその一番最後の所に、釜の前で柄杓ですね、柄杓でお湯を汲み出す、あの柄杓を頂いたんです。あの柄杓を頂いたんです。ははぁこの様にも間違いのないお茶の点前をする様に、一分一厘間違いのない働きの中に、最後に神様に掬い取られなさるという風に、私は風呂の中で頂きました。言うならばこの世で掬い取られると同時、この世あの世をお互いが掬い取られなければいけんのです。
今日皆さんに聞いて頂きたい所はです。信心は大きな信心でなからなければならない。大きな信心でなからなきゃ迷いが起こる。ただ御利益だけの目当ての信心なら、何々様だって頂くんだと。大きな信心と言や、天地金乃神様の御信心ぐらい偉大な信心は外にはないのだと。その天地の神様が一目に見てござる、しかも降る照るを自由になさる。人間の生きるも死ぬるも、この神様のおかげを頂かなければ出来んのだ。
然も死んだからと云うて、神の世話にならんわけにはゆくまいが、死に際にも願いをせよとおっしゃるほどしの神様であると云う事を、確信出来る時に私は金光様の信心が、本当に身に付いた時だと思うのです。しかも久富クニカさんの場合は、それこそ一分一厘間違いのない、この様な働きの中に、最後に神様に掬い取られる働きというものがです。私は信じてこそ、初めて一心と定めた信心だいう風に思うです。
お願いしよったばってん、おかげを頂ききらじゃったと。こういう言い方は金光様の御信心にはないと思うですね。これ程お願いをしてからの事であるから、一分一厘間違いのない合楽の働きを、十分に知っておるのですから、皆さんの場合。その一分一厘間違いのない中に、降らんが良いけれども降ったのである。してみるとその降った事もおかげで、一分一厘間違いのない神様の働きだと。
最近の合楽では分からせて頂こうと言う様な、また分からせ様とする天地の親神様の働きを、最近感ずるのです。だから私は昨日の郷之浦教会の記念祭は、おかげ頂かっしゃったなぁと云う事です。昨日月末の御礼に、富永先生たちが御信者連れて出て見えておった。その話をさせて頂いた。本当に郷之浦の今日は記念祭だけれども、本当に間違いがない証拠、おかげを頂いとるですばいち。と云うてその事に本当に改めて気が付いた。
繁雄さんが今日は建前ですから、このお湿りがどうぞ上がります様にと言うのではなくて、今の合楽ではね、大事な時に降ると言う事が、特別に有難い事だとされておるのだから降るが良いの照るが良いのとは、お願いするなとという信心なんです。まともに受けて行こうというのです。それでも昨日お届けに見えた後に、今日の私共の建前におかげを頂いて、兄弟達が皆手伝いに来てくれておりました。だから皆お国替えの時には、揃うてみんなが何と申しますかね
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